馴染みの店を失う、料理を始める、宅配に頼るーーコロナ禍で変化した食文化を問う 作詞:n-buna作曲:n-bunaまさに『エイミー』という人物について歌っており、そのままタイトルとなっています。前作『だから僕は音楽を辞めた』はこのエイミーという男性目線の作品であったのに対し、『エルマ』はエルマという女性目線の作品で、この二人の登場人物についての物語がアルバム2枚で語られます。自身の音楽を追求するあまり、エイミーは自ら命を絶ってしまいました。その真意を探るべく、エルマはエイミーが残した手紙を頼りに曲を作りながら旅を続けています。そしてその旅の終盤でとうとう何も掴むことが出来なかったことから、旅自体を諦めてしまいたいという心情を、いなくなってしまったエイミーに向けて吐露しています。もう一度口に出して、親しい仲であるエイミーを失ったエルマは、エイミーの残した手紙を元にその足跡を辿る旅をしながら作曲活動を続けてきました。口ずさみながら、ギターを弾いて歌詞を書いて、ということをしている間に長い時間が経ってしまいました。次の「六畳間」まで1から順に数字が振られており、数え歌の様になっています。誤解ばかりでお互いにすれ違い、君が帰らないという手遅れの状態になってしまった。エイミーが死んでしまった理由はハッキリと語られているわけではありません。アルバム『だから僕は音楽を辞めた』のタイトルからもある通り、彼の死は音楽に直結していることはわかります。しかしそれが間接的になのか直接的になのか、自分のせいであるとエルマは自責の念にかられています。忘れたいことや、お互いわからないことも、君と僕だけのものだ。二人だけの思い出にの中には、忘れたいことや、わかり合えなかったこともあります。しかしそれは二人にとってかけがえのないもので、エイミーの死によってそれら全てがなくなってしまうなんてエルマには信じられません。それでも夜が明けることを信じて旅を続けてきました。人生なんてそもそもが何の目的もない馬鹿みたいなものなのに、何故こんなに思い悩んでいるんだろう。やり場のない悲しみに、エルマは少し自暴自棄になって「人生全部が馬鹿みたい」と吐き捨ててしまいます。しかし、見上げた空に流れている雲を見ると、作曲をずっと続けてきた条件反射のように想像力が働いてしまい、エイミーのことを思い出してしまいます。数十年、生き急いできた中で、許せないことも多かった。エイミーが命を絶った理由を『だから僕は音楽を辞めた』の歌詞から読み取ると、音楽にかけた情熱と、それを求められない世の中とのギャップに悩んだ末のように思われます。そして、エルマもエイミーに倣って旅をしてきましたが、自分の書いた詞が単なる文字になると自らの創作に価値を見出せなくなってしまいました。言葉も消耗品みたいなもので、思い出を言葉にしてもやがて底をつく。エイミーを追いながら作曲を続けてきましが、それもやがて終わってしまいます。サルスベリは7~10月ごろに100日間真っ赤な花を咲かせることから、百日紅(ヒャクジツコウ)とも呼ばれます。「エルマの日記帳」によると、『エイミー』という曲は9月16日に作られたもので、ちょうどサルスベリの花が咲くころです。ずっとエイミーに対する答えを探し、待ち望んでいましたが、結局はまた時間が経って秋ごろになってしまいました。このまま、何処か遠くの国で、君と一緒にいた夏のことを淡く思い出しながら。「このまま遠い国で」どうなるのかということは語られませんが、恐らくエイミーと同じように命を絶ってしまうという結末を望んでいるのではないでしょうか。「人生をかけて君の歌を書いたのに」が口癖だった君が言っていたように、想像力が働いてそれでもなお歌を書こうと紙をなぞっている。人生をかけて君のことを歌にする、と言っていたエイミーのことを考えると、自然に曲を書こうと手が動いてしまうほどにエルマには使命感や後悔など旅を続けるための理由がありました。しかしそれももう諦めるように、もういい、と言ってしまいます。もういいんだよ。この歌で最後にするから。エルマはこの歌を最後に、歌うことを辞めてしまおうと思っています。そしていずれ人生は終わるんだからいつ死んでも同じ、と自ら命を絶つ覚悟を整えようとしています。しかし、そこにふとエイミーが「いいから歌え」と言っている声が聞こえます。やはり気持ちはまだ揺れており、踏み出すことは出来ません。もう人生は全部馬鹿みたいだから終わらせてしまいたい。こんなに悩んでいる人生がもう馬鹿みたいなので、自分ももう命を絶つという覚悟をしています。しかし空を流れる雲を見ると、また条件反射のように想像力が働いてしまい、今度はまるでエイミーが雲を操って僕に何かを言おうとしているかのように見え、やはりエイミーを思い出してしまいます。エイミーに対する強い思いで行動してきたエルマですが、とうとう答えを見出すことが出来ずに立ち止まってしまい、「この歌で最後だから」と歌います。しかし、この後エルマはエイミーが残した曲『ノーチラス』を発見し、2枚のアルバムの物語は一区切りとなりましたね。ヨルシカの関連解釈記事は22記事あります。music.branchwithの関連記事を読んでみませんか?1000fans33位日間ランク好きなアーティストは、sumika あいみょん 米津玄師など。朝一のコーヒーが趣味です。上記のアーティスト以外も邦楽・ボカロはなんでも聞きます。JASRAC許諾第9023463001Y38026号各ページに掲載されている、ジャケット写真、アーティスト写真、サムネイル画像等の画像及び歌詞の著作権は、Copyright © 2018-2019 music.branchwith All Rights Reserved.
海底、月明かり 14. 「あまりに突然に世界が変わってしまった」2020年のドキュメントを綴る エイミー -ヨルシカ ボカロPでもあるコンポーザーのn-bunaとボーカルのsuisの二人によるヨルシカの3作目となるアルバム『エルマ』に収録されています。前作のアルバムを通して物語として繋がっており、そのクライマックスのような位置にある曲です。 ボカロPとしても活動するコンポーザーのn-buna(ナブナ)が、女性シンガーのsuis(スイ)と共に結成したバンド「ヨルシカ」。彼らが8月28日にリリースした『エルマ』は、今年4月にリリースされた『だから僕は音楽を辞めた』の続編となるコンセプトアルバムだ。約半年というスパンで2枚のフルアルバムをリリースする活動濃度にまず驚かされるが、さらに特筆すべきは、両作品に通底する、重層的に作られた世界観だろう。この2作は「対」になるような構造を持ちながら、ふたりの登場人物を巡る物語を紡いでいく。ここから立ちあがってくるのは、強烈なほどの「文学」の香り。両作ともに初回生産盤にはそれぞれ「手紙」と「日記」という体裁をとったブックレットが付属しているのだが、そこに綴られる言葉の羅列が、この2作品の背景にある「物語」の存在を知らせている。『エルマ』において、彼らはオスカー・ワイルドの「人生は芸術を模倣する」という言葉を根底に置きながら、井伏鱒二『山椒魚』やジュール・ヴェルヌ『海底二万里』などの文学作品を参照し、さらに与謝蕪村やヘンリー・ダーガーの名前も挙げながら、「不在」を背負い生きる主人公「エルマ」の物語を紡いでいく。今、飛ぶ鳥を落とす勢いでその認知を広げているヨルシカだが、彼らは何故、それほどまでに言葉を、物語を、音楽の中に必要としたのか。そして今、彼らとリスナーをつなぐ精神的なリンクは、なにによってもたらされているのか。ヨルシカでの活動を「余生」と語るシンガーのsuis、そして「自分」を語りたがらない芸術至上主義者n-buna。ふたりに話を聞くことで、今、ヨルシカがまとう秘密にさわってみた。―『エルマ』は、前作『だから僕は音楽を辞めた』の続編となる作品ですよね。2枚のフルアルバムを通してひとつの物語が描かれているという、濃密で重層的な構造を持った作品たちですけど、この2作の構想はどこから生まれたものだったのでしょうか?音楽を残して去った「エイミー」という青年と、その青年を模倣して音楽を始める「エルマ」という女の子の物語を作る。そうして1枚目で「模倣される側」を、2枚目で「模倣する側」を描くことで、オスカー・ワイルドの言葉を表現しようと思ったっていうところが、根底にはあります。―オスカー・ワイルドは「芸術至上主義」的な価値観で知られる人ですけど、「人生は芸術を模倣する」というのは、ワイルドの考えをとても象徴的に表しています。この言葉は、n-bunaさんにとって大きなものなんですね。彼だけじゃなくても、今回の作品には井伏鱒二や与謝蕪村、正岡子規、あるいはジュール・ヴェルヌ(19世紀から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの小説家。代表作に『海底二万海里』(1870年)がある)のような様々な人たちの存在が影響していますけど、僕は彼らをある種、「模倣」しているんだと思います。―n-bunaさんはヨルシカ結成前から、ソロ名義でも活動されていますよね。ご自身の音楽家の歴史の中で、2019年にこの2枚の作品が産み落とされたことに、必然性はあったと思いますか?―だとすると、物語と作者の距離感という点で、今作はn-bunaさんご自身とかなり距離が近いと言えそうですね。実際、この2作品の背景にある物語はスウェーデンを舞台にしています。n-bunaさんがかつて暮らしていた土地でもあるそうですね。 2019年8月28日(水)発売1.